「異人(いびと)」散文詩を書いてみました。
詩はあまり書かないのでお手柔らかに。平日の午後の美味くも不味くもないお茶と一緒に読んでみてください。
「異人(いびと)」
俺は今まで普通の目でみれば、残忍だ卑劣だと唾を吐かれるような行為を数多くしてきた。君だってそのうちのいくつかは知っているだろう。しかし、大抵の偉人がそうであるよう、映像化されると、とことん”ポップ”になってしまう。映画やテレビで語られていることは、俺のほんの爪のアカ程度だと思ってくれればいい。爪のアカ。それ以上でもそれ以下でもない。例えば、俺は信号機にムカつく奴の脳みそをぶら下げたこともある。(いや、これも所詮“ポップ”か。)頭が空っぽの状態なら、赤も青も”脳みそ”も関係ないからな。
決して残忍な俺自身に酔っているわけではないし、頭が”オカシイ”に賛同して欲しいという気も毛頭無い。世の中には、俺を信俸している奴らが結構な数いるみたいだが、そんな奴らこそ、俺が本当に殺してやりたいと思っている連中だ。“カリスマ”とは、言ってみればクソの掃き溜めだ。みんながその大きな穴にクソをしまくるから、臭いが目立ってハエが群がるのさ。頼むから、俺をクソまみれにしないでくれよ。
やりたいことが色々ある。まずは、俺にとってのハエも、俺に群がらず嫌悪し遠くから見ている人間も、大差ないと教えてやりたいのさ。俺は差別はしない主義だ。等しく憎みたいのさ。理解してくれる人間になかなか会えなくて残念だな。(もしもいるなら、すぐ電話して欲しいくらいだ。誰をどんな風に殺すか、デカいテーブルに集まってナメクジみたいに考えているより、よほど有意義な話ができるだろう。)
出鱈目だと思っているだろう。そうだなあ、例えばその辺にいる政治家でも、鮨屋の大将でもさらってきて、一瞬で生きる理由を奪ってやることは、それほど難しくない(完全に崩壊させず、喋れる状態にするには、経験とテクニックが必要だが)。そして、今までと違う理由を与えてやる。“生きる理由”なんてジャンクフード並みに陳腐な言葉だが、人間ってやつは、そいつが無くなると呻き声をあげ、つぎにぶらさげてやった理由に、二日エサを抜かれた犬みたいに食い付きやがる。そうして、そいつは今までとは違うまったく別の人間になってしまうのさ。演説中に赤ちゃん言葉を使ったり、魚を見ただけで吐き気を催す愉快な人間にだってしてやれるぜ。
悲劇かって?いや、それがそうでもないんだ。そいつは以前の生活と同じように、飯を喰うし、クソをするし、女に興味を持つし、鼾をグウグウかきながら寝ちまう。ただ、ネクタイや暖簾(のれん)が変わっただけなんだよ。「おい、なんでずっと同じ、ダサいネクタイをしているんだ?」本人が気づかないなら俺が変えてやろう。そういうものが、真の人間じゃないのかい。
つまり、心のない人間が多いから、俺が必要なのだ。現代の人間を一言で表すなら、一生懸命なぐり合いしているように見えて、どっちも傷ひとつ負っちゃいない、粘土みたいな奴らなのさ。それこそ、真の悲劇じゃないか。殴ったときの得もいえぬ感触も、殴られたときの腹ワタの煮え繰り返りも知らないのだ。生きることがわからない。無知と魂の死を晒しているだけだ。そんなかわいそうな状態を、人生と呼べるのか、そいつらは生きているのか。なあに、不安がることはない。俺が変えてやるさ。