夏目漱石の『こころ』と共に、日本で最も読まれている小説と言われる『人間失格』。最近、小栗旬や沢尻エリカで映画化されている『人間失格』。1948年の刊行当初から大きな波紋を呼び、現代に至るまで、常に話題の一線に居続ける作品である。
この小説が何を伝えたかったのか、一般的な解説を述べると共に、それに付け加える形で、『人間失格』の構造的な秘密や“喜劇“的な観点に注目してみたいと思う。
というのも、この小説の完成後に太宰が自殺したことも相まって、悲劇的な面にしか注目していない人が多いと感じたからだ。
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『人間失格』一般的な解釈
『人間失格』はどのような物語か!?
一般的な解釈は、主人公葉蔵には人間的に屈折した部分があり、苦しみながら、人について悩み、絶望を感じていくというものである。
性格的に屈折したモノの見方が、ある面、純粋であるといえるため、真に人間らしく生きようとすると、絶望するというのがテーマだと捉える人もある。
さらに、太宰が青森の地域の名士の家に生まれ、父や母の愛情を十分に受けられなかったという事実や、『人間失格』本文の、
女中や下男から、哀しいことを教えられ、犯されていました。引用元『人間失格』
という部分から、葉蔵が、ネグレクト(育児放棄)や性的虐待というトラウマを持った、境界性パーソナリティ障害であり、『人間失格』は境界性パーソナリティ障害者の手記であるという見方をしている人もいる。
これらの解釈は正しいと思うし、これらの側面が傷を負って生きている戦後〜現在の人々から、凄まじいまでの共感を得ることになったというのも分かる。
しかし、これらの考え方のみに囚われてしまうと、『人間失格』の娯楽性に目を向けられなくなるし、作品の偉大さも損なわれる気がする。
そもそも論として、太宰治が境界性パーソナリティ障害であり、作品にその影響が現れているのが事実だとしても、本人には別の意図もあったかもしれないという考え方が抜け落ちている。
作家には、多少なりとも心に問題を抱えている人が多い。彼らの作品を、彼らの病名からくるものだと単純に結びつけて捉えてしまえば、創作された芸術性まで剥ぎ落とされることになる。
太宰は作家なのだ。創作者なのだ。心の問題については、あくまで作品の一要素だと考えたほうが、物語に広がりと深みが出るだろう。
コメディ(喜劇)としての人間失格
『人間失格』を読んだ人ならわかると思うが、葉蔵の手記では、自分にまつわる悩みや悲劇がほとんどコメディタッチで書いてある。
葉蔵は自分の悲哀ではなく、起きた出来事と距離を取った風な感じで、事実を淡々と書いている。爆笑という類(たぐい)のものではないが、終始苦笑いさせられるような文章だ。
もとより太宰は、『御伽草子』などでわかるように、バカバカしさや滑稽さに富む表現を多く用いている。滑稽な表現は大得意なのだ。
葉蔵の苦悩を喜劇風に書いているから『人間失格』は喜劇である!と一概には言えないが、悲しさも可笑しさも、両面を含んだ“悲喜劇”だということは間違いないだろう。
太宰の作家性を考えると、葉蔵という自身の投影を描き、みんなに笑ってもらいたい、こういう人生は笑えると感じてほしいという思惑もあったのではないか。そう思えて仕方がない。
異世界から現れた葉蔵の社会生活
ここでは、僕が考える『人間失格』の一つの見方を解説したい。
『人間失格』が単純な境界性パーソナリティ障害者の物語ではなく、喜劇性も含んでいると考えて場合、そのストーリーについて、突如、異世界から現れた異人=葉蔵の社会生活と捉えることができないだろうか。
葉蔵は、人間の形をしているが、思考パターンが全く普通の人と違う“異人”として生まれたという物語だと考えると面白いのではないか。ライトノベルの異世界のモノの原型という側面を持っているように感じる。1948年からラノベやってるってすごくない(笑)!?
家族を含め、他の人間が全員別の種族であるとき、社会に生きる意味や成功する意味はそもそも無い。
違う種族と接していると考えると、どれほどの恐怖を感じているだろうか!?
例えるなら、未開の食人族に潜入した一人の現代日本人。
徹底的に観察して、彼らと同じ行動をしないと、食べられてしまう。葉蔵が感じていたのは、そんなとてつもない恐怖だったのかもしれない。
あくまで、分離は病気でなく、自分の意思で作った仮面であり、『人間失格』は異化効果(葉蔵に共感させない表現)も強調した物語でもあるのだ。
最初に説明した通り、これはひとつの捉え方なので、他の見方が間違っている訳ではない。むしろ、色々な側面が同時に存在する作品だといってよい。
どんでん返しサスペンスとしての人間失格
- 葉蔵の物語を私が他人事のように“あとがき“”している
- マダムの「神様みたいないい子でした」というセリフ
この2点のが重なり合って、『人間失格』は、どんでん返し系のサスペンス小説としての一面も併せ持つ。
なぜなら、太宰=葉蔵だろうと誰もが思うからである。
葉蔵として生活し、その生活を切れさっぱり忘れ去って、小説家になっているような、太宰に寒気を感じるからだ。同時に客観的に見れているのは救いかもしれない。
もちろん、『人間失格』の物語が、太宰=葉蔵と言っているのではなく、あくまでそう見えるというだけなのだが、その距離感が絶妙で面白い。
もっと面白く考えれば、京橋のマダムは“私”が葉蔵だと知っていながら、手記を渡したのかもしれない。
考え過ぎかもしれないが、こんなサスペンス的な楽しみ方もできるのが、『人間失格』の魅力の一つだろう。
人間失格が現代人の聖書となる理由
『人間失格』は様々な批評家によって、悩みを抱えて生きる人たちに自分の物語だと思わせられる物語だ。この作品を読んで救われる人がたくさんいる。といわれているが、最初から結末までずっと悲惨なのに、救われる人がたくさんいるというのはどういうわけか?
人間関係に現れる違和感が、ものすごい洞察力で書かれているので、自分と同じような考え方をしている人が存在する!と分かる嬉しさも、もちろんあるだろう。
付け加えるなら、悲劇と喜劇の両方を持ち合わせ、作品内の作品になっている。
『人間失格』の葉蔵は僕かもしれない、葉蔵は打ちひしがれながらも、それがどこか可笑しい。
さらに作品の中の作品という形になっているので、入り込んだ読者は、自分たちのマインドがいきなり現実を突きつけられるような印象を受けず、適度な距離感を保って一緒に芸術作品になるような、不思議な感覚を得られるのだろう。
これが『人間失格』で読者が救われる秘密かもしれない。
太宰治が自殺した理由
作家の心の問題から作品を断定する愚を語っておいて、人間失格から太宰治が自殺した理由を読み解こうという姿勢はおかしいと考えるかもしれない。
しかし、僕は完全に決めつけるのは危険だと言っているだけで、作家と作品の関連性を考えることは、もちろん役に立つと思っている。
話は本題に戻るが、太宰治が自殺した理由は、『人間失格』の最後の
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」引用元『人間失格』
という、京橋のマダムのセリフに集約されていると思う。
京橋のマダムや、周りの人間から、「神様みたいないい子」だと思われていたということはつまり、誰も葉蔵の苦悩を知らず、彼を全く理解していなかったということに他ならない。
葉蔵に投影された太宰は、誰からも理解されていないことを悟っているのだ。
その感情が、自殺の根底にあるのではないかと思う。