バッファロー’66(1998)がめちゃくちゃお洒落な映画だと聞いてみてみたら、お洒落なだけじゃなく、演技やストーリーも最高の話だった。
心に問題のある男性と少女の恋という点では、「タクシードライバー」や「レオン」に通じるものがあるが、バッファロー’66の結末は、また全然違う形になっている。
ネタバレありで、感想や考察を書いていく。
ビリーの少年時代を渦巻く社会問題
主人公ビリー・ブラウン(ヴィンセント・ギャロ)の過去がわかる会話などが、ところどころで入り込むのだが、結構悲惨なものが多い。
母親は、ビリーが久しぶりに帰ってきたら、チョコレートアレルギーなのを忘れており、チョコドーナッツを出すし、レイラ(クリスティーナ・リッチ)が話すビリーとの馴れ初めそっちのけで、バッファローズの試合に夢中。父は癇癪持ちで、ビリーが可愛がっていた子犬を殺してしまった過去を持つ。
母親はネグレクト(育児放棄)、父親はすぐ癇癪を起こす。ビリーが少年時代十分な愛を受けることができず、それが大きな心の傷になっていることがハッキリと伝わってくる。
ファミレスでの会話では、ビリーが高校の時に好きだったウェンディという女性からも「ジロジロ見ないで」と散々な扱いをされたようだが、その彼女をずっと好きだったという衝撃発言がある。ウェンディから不当な扱いを受けたのも、かなりトラウマになっている模様。
親が親の役割を果たさず、女性が優しさを忘れている。そんなアメリカ社会で育ち、心に大きな傷を追っている人間はビリーだけではないだろう。
バッファロー’66はそんなアメリカ社会の一般問題に対しての、切れ味抜群の回答である。
「天使のような子を手に入れた。だから、過去はすべて忘れて彼女のために生きる!」
綺麗事に聞こえるかもしれないが、こうやって前進している人たちもいるのだ。そんな人々にとって、このバッファロー’66は救いと呼べる作品だろう。
ヴィンセント・ギャロのセンスが凄すぎる
バッファロー’66で監督・脚本・主演・音楽を務めたヴィンセント・ギャロのセンスに脱帽。俳優であると同時に画家でありミュージシャンでもある彼の芸術的な能力がいかんなく発揮されている。
色褪せて荒れた映像、流れる音楽、セリフ、演技、これらが組み合わさって、ワンシーンワンシーンとても見応えがある作品になっていた。マルチプレイヤーであるギャロの才覚は計り知れないといっていい。
演技力も抜群で、真剣にみると、終わった後にビリーみたいな動き方をしてしまうし、彼のように叫びだしたくなったりする。ビリーのマインドが抜けないのだ。
ビリーとレイラの幸せを祈らずにはいられない
バッファロー’66が最高だったポイントは、やはり、ビリーがスコットを殺し自殺するという破滅を選ばずに、少女レイラに希望を見出したというところだろう。
ビリーは見つけ出した幸せに歓喜し、レイラのためにホットチョコレートとクッキーを買い、客にまでおごる。彼はまるで人生が急に変わったかのごとく振る舞う。
ビリーとレイラは年齢も違うし、その恋愛がどうなるかはわからないが、幸せになってほしいと願わずにはいられない。世の中に“救い”というものがあるならば、ビリーとレイラのような人々に、手を差し伸べてあげてほしい。